学校教育での道徳

  • 2019.03.13 Wednesday
  • 22:04

新聞記事より。

 

《やるなあ、星野君》

 

『 「かんとくの指示は、バントだけれど、今は打てそうな気がするんだ。どうしよう・・・」

  ピッチャーが第1球を投げ込んできた。星野君は反射的に、思いきりバットをふったー。

  これは小学6年の道徳教科書に掲載されている読み物「星野君の二塁打」の一節。小学校

 道徳で使用される8社のうち複数の教科書がこの話を載せている。

  少年野球の地区大会で、監督の「バント」の指示に背いた星野君は見事二塁打を放った。

 これでチームは勝利し、市内野球選手権大会への出場を決めた。

  翌日、監督はメンバーを集め「僕は星野君の二塁打が納得できない」と切り出す。バント

 で送るのが「チームで決めた作戦だった」として、勝手に打って「チームの和を乱した」と

 星野君を非難する。

  さらに監督は「ぎせいの精神の分からない人間は、社会に出たって、社会をよくすること

 なんか、とてもできないんだよ」と諭し、大会で星野君を出場禁止にすると宣言する。

  ある教科書はこの教材の「学習の道筋」として「決まりを守り義務を果たすことの大切さ

 について考える」と添え書きしている。

 

  この話に、私はかなり違和感を覚えてしまう。

  この違和感はどこから来るのか。「危ない【道徳教科書】」(宝島社)などの著書がある

 元文部科学省官僚の寺脇研さんに聞いた。

  「この教材で授業をすれば、子どもたちの意見は【星野君は間違ったことをした】になる

 のは明らか。これでは【結論の押し付け】だ。たとえ監督の指示が間違っていても守らなく

 てはいけないのか。指示に反したら必ずペナルティーを受けなければならないのか。この話

 では、そうした議論の発展が生まれにくい」

  「さまざまな問題は【個人】と【公共】との間合いの取り方に起因する。100%自分を

 主張することも、100%自己を犠牲にすることも不自然。ケース・バイ・ケースの判断が

 必要だ。それを【組織の指示には従うべきだ】と教え込めば、例えば過労死という悲劇が生

 まれる」

  「そもそも、今の若者にはこうやって教え込まねばならないほど【犠牲の精神】が足らな

 いのだろうか。東日本大震災でも熊本地震でもたくさんの若者が現場に行ってボランティア

 をしている。それが当たり前の社会になっているのに」

  全面的に同感である。

 

  今、「星野君の二塁打」を読んで多くの人が想起するのは「日大生のタックル」を巡る議

 論だろう。私は現在の日本社会には「ただ指示に従う人間」より「何が最善か自分で考える

 人間」が求められていると思う。

  道徳とは物の分からない子どもに最低限の徳目をたたき込むことだ、と考える人もいるだ

 ろう。しかしそれは家庭の仕事であり、学校教育では、簡単に答えが出ないことを自分で考

 え抜く「頭と心の体力」を養うべきではないか。用意された「答え」は要らない。

  ちなみに、この話を読んだ私の感想は「やるなあ、星野君」であり、「監督、器が小さい

 ・・・」である。

  小学校で昨年4月から、検定教科書を使う「教科」としての道徳の授業が始まった。中学

 校では今年4月からである。』

 

「道徳」の教科化は、親として無関心ではいけないことだと思います。

我が子がどんな内容を学んでいるのかに、しっかりと関心を持つ必要があると思います。

今回の記事を読み、その思いが、とても強くなりました。

コメント
おはようございます。
小学校は昨年4月から。中学校は今年4月から
道徳が教科化されているのですね。
内容に関心をもって家でも話し合う必要がありそうですね。
家での話し合い、とても大切だと思います。
とてもタイムリーに、今日、長女が「道徳の教科書」を
持って帰って来ました。
  • ひごちゃん
  • 2019/03/14 9:20 PM
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